LIVING DEAD STOCKに寄せて-民藝、bricoler、ブートレグ ― 石毛健太評 「LIVING DEAD STOCK」展

Text by Kenta Ishige
Photography by Yutaro Tagawa

去る日、宮澤謙一個展『LIVING DEAD STOCK』をアーカイブするに際し、インタビュー記事の執筆をCALM & PUNK GALLERYから依頼された。展示へは足を運んでいたし、せっかくのなので仕事を受けることにしたが、色々考えていたら段々テンションも上がってきたので単純なインタビューというより、それを元に簡単な論考形式にさせてもらえないかというこちらからの提案を快諾していただき、この記事を執筆している。

LIVING DEAD STOCK by Kenichi Miyazawa

アンパンマン
インタビューの際に宮澤がディスプレイ越しに見せてくれた、今まで制作してきた物の中でも何故か気に入って手放せずにいるというアンパンマンの立体作品が頭から離れない。
zoomの画面から宮澤が消え、何かガサガサと音がした後、ソレを手に宮澤が再登場した。造形のあまりの妙味に笑いがこぼれる。愛おしげにソレを見つめる宮澤の表情から、どうやら本当に大切な物のようだ。以前どこかのリサイクルショップで売られていたらしい、名も知らぬ誰かが作った滋味深い表情のアンパンマンのぬいぐるみの頭部が、本来よりもかなり寸胴にデザインされたセサミストリートのエルモのクッキージャー(さらに宮澤がアンパンマン風にリペイントしている)に組み合わされている。一見するに、もはやどこまでが宮澤の仕事で、どこからが他の誰かの素人仕事なのかも判然としない。その後もインタビュー中に宮澤の画面の奥に佇むソレが目に入り、集中が削がれて大変だった。

民藝
宮澤は、杉山純とのユニット「magma」としても活動している。「magma」は、主にアッサンブラージュによるポップな作風で知られ、その活動はギャラリー等での作品発表に収まらず、クライアントワークや、広告案件も多い。いわゆる「クリエイター」のような複合的な立場で活動している。「magma」の活動は、両者が武蔵野美術大学に在学中の2008年から始まり、今年で13年目となる。
キャリアが長い分、クライアントワークの中で求められる「magma像」が確立されてくるので(スムーズに仕事を進める上でそれはむしろ重要なことであり歓迎されるべき事態だろうけど)、そうなると作家個人のふとした思いつきを実験する場にはなりにくいと宮澤は語る。13年の活動のなかで、「magma」の活動においては、作家個人のキャラクターの強さというよりも、宮澤・杉山両者の阿吽の呼吸が試されてきた。そうした環境の中で、宮澤が「magma」の活動とはまた別に、「コロコロ変わる」「ちょっとした思いつき」で一人の作家として歩み出そうとしている現場がCALM & PUNK GALLERYであり、今回も含めると2度開催された作家の個展だった。

LIVING DEAD STOCK by Kenichi Miyazawa

『LIVING DEAD STOCK』には、アッサンブラージュ、絵画、セラミックといった様々なメディアの作品が並ぶ。宮澤といえば、アッサンブラージュと思い込んでいたために、少々驚いた。後日インタビューにて、往年の作家が今まで触れてこなかったメディアに触れた時、まだ手が慣れてない状態で制作された作品に作家の本質が多角的に表れるようで、それを展覧会などで鑑賞するのが楽しいと語っていた。この観点がそのまま自身の制作に翻った結果が『LIVING DEAD STOCK』でのペインティングやセラミックといった様々な技法へのチャレンジなのだろう。
今後も活動を続けていく上で、習熟を迎える技術もあろうが、そうなった時にはまた別のメディアを探すと思うと宮澤は語っていた。何かに精通したスペシャリストになっていくことよりも、素人として制作に当たることが宮澤の目指すところのようだ。特にセラミックは上達したくとも、そこが焼き物の難しさであり広く知られた面白さだろうが、制作過程で自然に委ねる部分が今までの制作よりもずっと大きいがために、中々習熟しない難しい技術だ。このように制作の中で自然へと明け渡し、作家のコントロールを外れることをポジティブに捉える向きは民藝における「他力性」と言えるだろう。「他力性」は「個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、目に見えない大きな力によって支えられているものである」とする、民藝運動の父と呼ばれる柳壮悦が民藝品の特性として挙げた9つのうちの1つだ。
民藝に関しては、まずもって鑑賞されるための美術品とは一線を画す実用品であることが要求されるため、不用意な同一視は危険ではあるが、宮澤の制作に関してはもう一つの共通するアジェンダとして「無銘性」も挙げられる点において、やはり言及しておきたい。以下は『LIVING DEAD STOCK』の前、CALM & PUNK GALLERYでの初個展『CHOCO MINT CONDITION』での宮澤のステートメントだ。

誰かのつくった、
あるいは、つくらされた、
光景や物体。
第三者が、記憶を着色したメモの様なバラエティーパック。
私はただのフィルター兼工程。

民藝の無銘性は「特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである」だ。作家が素材集めと称して、半ばライフワーク的に中古市場を漁りスタジオへ持ち帰るのは無銘の逸品を求め探すことでもあり、宮澤の制作は自身もまた無銘の逸品を作るためでもあるだろう。
しかし、民藝への定義付けは柳ら民藝を発見した面々が嫌悪した美術品との階級闘争の痕跡でもある。民藝は、エリートへのアンチテーゼとして再発見されたという側面は否めない。民藝は既存の美術品と差別化を図るために「用の美」として擁立されたが、結果的に自らが産んだドグマに呑み込まれる宿命を背負った。弱いものこそ強いという主張は肯定された瞬間にパラドックスが生じるのだった。宮澤が件のアンパンマンを他の作品と比べて「恥ずかしくない」と語るのは、無銘のものとして制作できた正当性を自身で理解しつつ、その正当性を無闇に主張すれば無銘性もまた霧散してしまうことを知った上での折衷なのだろうか。

LIVING DEAD STOCK by Kenichi Miyazawa

bricoler
2度の個展でギャラリーからのステートメントの中に繰り返し示された「日曜大工を好み日用品を自作していた父」の存在を宮澤は制作活動のルーツとしている。「日曜大工」は、フランス語では「bricoler」(素人仕事をする、日曜大工をする)であり、「bricoler」する父親の影を追いかけ、彼らの所作を表現として再生する宮澤の仕事はレヴィ=ストロースが指摘するところのブリコラージュとの類似点も多く見られた。
ブリコラージュは、著書『野生の思考』の中で「器用人(ブリコルール)」による仕事とされる。器用人は「科学者」、「くろうと」、「エンジニア」、あるいは「技師」と対峙される。曰く、計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手が下せない技師に対して、雑多でまとまりのない潜在的有用性のみによって増加・更新され続けるストックの中で何かを作り上げるゲームのプレーヤーが「器用人」とされている。自らが買い求めた中古品で溢れる作家のスタジオは、まさしく器用人のバックヤードだろう。また器用人は、限られた可能性の中で選択を行うことによって作者の性格と人生を語る、あるいは計画をそのまま達成することは決してないが自分自身のなにがしかを作品の中に残すとされる。
これらの構造を宮澤の仕事に当てはめてくと、『LIVING DEAD STOCK』についての、あるいは作家自身の外縁が見えてくる。宮澤は中古市場で掘り返した素材をアッサンブラージュすることを通じ、自らを形作ったポップカルチャーを解体・再構築し、そこに新たな批評性や意味を求めている。

LIVING DEAD STOCK by Kenichi Miyazawa

ブートレグ
つまり宮澤が目指しているのは「よくできたブートレグ」という一見倒錯した何かではないだろうか、と思う。
ブートレグは大衆文化、資本主義が生み出した最も尊い物の一つだと常々思っている。ブートレグそのものを突き動かす動機は、他人の創造を掠め取らんとする怠惰と不純、行われることは、ほぼ犯罪行為、標的にされた対象にしてみればたまったものではない。しかしそれでも素人仕事が一つの文化を形成している稀有な例ではないだろうか。ランディ・ジョンソンがレッドツェッペリンを愛するあまり、彼らのブート品のマニアにもなってしまっている話は有名だ。素人仕事で作られてしまったブート品をどこかのリサイクルショップ、蚤の市、ウェブオークションで見かけた時の言い知れぬ感動の正体は、望まず批評的でありながらもワゴンセールに埋もれる切なくなるほどの滑稽さと内包された力学への反射だ。
ローとハイの反転はアート、ファッション、投資分野など様々な場所で目にする。マクロに言えば資本主義というものがそもそもそういうものだから、今まで価値がないものとされてきた物に価値をつけることでーつまり安く買い叩いた株を高く売りつけることでー無限に膨張する構造が資本主義であり、そうなると倫理やクオリティやブランディングといったステータスが圧倒的にロー側であるブートレグが価値の反転を度々起こす、というのは自明の理でもあろう。80-90年代ストリートを席巻したダッパー・ダンがその違法性によってテイラーを閉店に追い込まれてから20年以上の時を経て、グッチとコラボレーションしたことは記憶に新しい。このサクセスストーリーは、先述の価値の反転を端的、かつ幾重にも表していると言えるだろう(*1)。さらに、この物語が買い叩かれる当人たちにおいて単純な反権威が権威に呑み込まれる悲劇という絵図として展開していない点に注目したいと思う。ここで描かれるのは権力への再編入あるいは再分配が、持たざる者がゲームチェンジのために「成り上がる」サバイバルではないだろうか。

LIVING DEAD STOCK by Kenichi Miyazawa

当然、ブートレグの全てがそういった倫理観に基づいた戦略的実践として作られているわけではない。というかむしろ、大半のブートレグはオリジナルの精巧なコピーを作ることで、価値を剽窃することを目指し制作されているものだ。しかし時たま、意図してか意図せずか、奇形的なあまりの過剰さによってその枠を飛び出すものが現れる。そのブート品の存在目的が価値の剽窃ではなく、市場にあふれる記号を再編成することで新たな意味の獲得へと至る瞬間こそが「よくできたブートレグ」の誕生の瞬間だ。それは例えば、ダッパー・ダンのゲットー・クチュールであり、どこかのリサイクルショップで発見・購入された故知らぬ非公認のアンパンマンのぬいぐるみであり、そのぬいぐるみの頭部を誰に頼まれるでもなくリペイントしたガラクタにドッキングした宮澤のアンパンマンでもある。
宮澤はこの「よくできたブートレグ」を作品として意識的に作り出そうとしている。キャラクターを模した陶器も絵画もアッサンブラージュも、ここまで記述してきた言葉を用いれば、「他力」や「素人仕事」によって、単なるサンプリングではなく別なる批評性を持つ何かへ変換しようとしている。インタビューの中では「抽象化」という言葉で宮澤が語るメソッドはブートレグのための奇形化の手順に他ならないだろう。「 Sparks」はホームセンターの駐車場に貼ってあった、雨や紫外線によって劣化しているポスターを模写したものであるらしい。そうして「他力」、「素人仕事」、「抽象化」によって宮澤の「よくできたブートレグ」は形作られていく。
『LIVING DEAD STOCK』に登場する作品群、コカコーラのロゴ入りのテラコッタ製の花瓶、ディズニーの何かのシーンと思しきイメージがにじんだ平面作品、端切れで作られ抽象化された陶器のキャラクター、猫型ダミー人形、その他諸々の資本・物質主義社会の中で繰り返し繰り返し登場しては消費され棄てられ続けるゾンビの群れだ。ポップカルチャーを彩る記号を、モノからコトと言われて久しい21世紀に歪なモノ、「よくできたブートレグ」として、さながらゾンビのように復活させるための黒魔術が、宮澤による『LIVING DEAD STOCK』だった。

LIVING DEAD STOCK by Kenichi Miyazawa

*1)https://www.gqjapan.jp/fashion/news/20180527/return-of-the-dap

《Author》
石毛健太
美術家、エキシビションメーカー、他副業多数。2018年東京藝術大学大学院修士課程修了。最近古本屋で本を買ったらページの隙間にイチョウの葉が挟まれていた。近年の主な個展にアイオーン(BIYONG POINT,2020)、主な企画にAnd yet we continue to breathe. (ANBTokyo,2020)などがある。
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