Metal will rule in my master scheme ― 檜山真有評 「ディスディスプレイ」展

展示概要:http://calmandpunk.com/exhibition/disdisplay/
Text by Maaru Hiyama
Photo by Naoki Takehisa

一台の車が外苑西通りだか3号線だかを通って、西麻布の裏路地に入り込む。おそらく、その車の中には人間よりもたくさんのディスプレイが入っている。今から彼らはそれを車から会場へ設置(インストール)する。会場は広さとタップの数があらかじめ定められているフィジカルな空間である。また、ディスプレイを用いた作品を制作した作家による指示書(ディレクション)を携えた彼らは悩むだろう。現実と理念がないまぜになったテトリスを消化して、空になった車にキーをかけて、車のヘッドライトが点滅するのは夜だ。
 私たちが展覧会を見るとき、それは作品を目撃すると同時に、ただの出来上がった結果を見るだけでもある。展示空間は常に何かの音が鳴っており、人が話している。今日のスケジュールが終わってディスプレイの電源を落とし、ギャラリーの電気を消した後の静けさを私たちは知らない。室内の明るさと外の明るさが逆転して、外光によって照らされて姿を表すいくつもの真っ黒のディスプレイがそこかしこにある部屋。筆者はその光景を見ていないが、作品が作品として機能しないものの、絶え間ないおしゃべりの余韻が聞こえるかのようなこの光景こそ本展を象徴するものではないのだろうか。

Photo by Naoki Takehisa

 ホワイトキューブの中を這い、枝垂れ、壁を伝うディスプレイのケーブルは、本展において主役であるはずのディスプレイよりも雄弁に彼らを語る。作家はケーブルについてどのような処理を指示書で彼らに託したのだろうか。これも鑑賞者が伺い知ることのできない作家と企画者が共有する秘密である。スマートフォンやタブレットなど普段無線で用いるものでさえ展示のために充電ケーブルが必要とされ、また、本展の作品のほとんどがケーブル処理をせずに剥き出しのままに展示されていることは、有限の距離を持ったつながりを支持あるいは渇望しつつも、「充電切れ」になることを極端に恐れていることを示唆する。有線のディスプレイがタップやコードの長さでどこに置かれるのかを制限されるが如く彼らの抑圧は、自分の飛べる距離が予め決められ、それ以上は向こうには行けない。それをより直接的に表すのは、展覧会を構成する「条件」や個々のページが乖離して交わらず、まとめサイトなどをミミックする「寄稿」といった周縁的なものである。そのような彼らのコミュニケーションは、あらゆるものへの配慮や計算により逆張りをはるかに超えるコンセプチュアルさで、もはやナンセンスとも言える域に到達する。

Photo by Naoki Takehisa

Photo by Naoki Takehisa

Photo by Naoki Takehisa

 「本展はこの「ディスプレイ派」の再検討を契機としています。2017年以降、決して少なくはない人数の作家が、ディスプレイを単なるイメージデータの表示機器としてではなく、何らかの形でディスプレイと物質、例えば絵具やカメラ、印刷物や電源コード、さらには展示空間自体が接触することによって直接的または記号的に作用し合うような作品制作を行ってきましたが、一方でそうした作品群を「ポスト・インターネット」というものだけで説明することは困難でした。」
 彼らは本展を説明する言葉をこのように用意しているが、果たして「ディスプレイ派」という言葉や「ポスト・インターネット」という言葉は何だったのか、というものに対する正確な答えはおそらく誰も繰り出すことはできないだろう。それらの言葉にまつわる実践はあったとしても、それらの言葉に対するポリティクスは未だ誰も行使していないのだから。しかし、彼らがこのように言葉にこだわるのは、彼らがそのポリティクスを行使するためでもなければ、その言葉を彼らのものへと奪取するためでもない。彼らのコミュニケーションのための切実な言葉なのである。

Photo by Naoki Takehisa

Photo by Naoki Takehisa

Photo by Naoki Takehisa

 「たくさん話したことも覚えているけれど、何をいったか正確なところは忘れてしまった。きっと内容のほうは、それを語るときの気分ほど重要ではなかったのだろう。双方の、ものにとりつかれたかのようにあふれでるアイディアや意見の勢いほどには。もしぼくに“サイバーパンク”が起こったことがあるとすれば、これがそれだった。水晶のように透明なひととき、大テキサス・ダウンロードというわけだ。」1

 SF作家のブルース・スターリングが同じくSF作家であるウィリアム・ギブソンとの思い出をこのように語る。同じものをつくる仲間として、気の合う友人としてのかけがえのないきらめく純粋な時間———。「ディスディスプレイ」もまたサイバーパンクが起こる瞬間を待っているのだろう。そのために、共通の用語や条件や言葉を整えることに注力する。展覧会という営みの中でそれが最も起こりやすいと考えられる瞬間は展示期間中ではなく設営中であり、企画者であるフィリオ社がその実はトータルコーディネーターであるのにもかかわらず、インストール業者を名乗るのもこのためなのではないだろうか。このように楽しい時をいつでも切望する彼らに対しては、未来は明るいよ、ともお先真っ暗だよ、ともとれる言葉を贈ってしまいたい。ギブソンの言葉だ。

「いったん完成したコミュニケーション・テクノロジイは、全面的に死に絶えることなどめったにない;むしろ縮んで、全地球的(グローバル)な情報構造の特定の隙間(ニッチ)にフィットするようになる。」 2

Photo by Naoki Takehisa

Photo by Naoki Takehisa
 

  
1『蝉の女王』ブルース・スターリング、小川隆訳、ハヤカワ文庫、1989年、P.6
2「アカデミー・リーダー」ウィリアム・ギブソン、黒丸尚訳『季刊インターコミュニケーション No.3』NTT出版社、1993年、P.54

檜山真有
1994年大阪生まれ。東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科修了。とらえがたいものの影響により起こる循環がどのように世界に影響を及ぼすのかを見たくて文化芸術に携わっています。2021年は本と展覧会をつくる予定です。2020年はWeb版美術手帖とFASHIONSNAP.COMで連載をしていました。